【戦国武将に学ぶ】高山右近~地位を奪われ、国を追われても信仰を選んだキリシタン大名~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

キリシタン大名として有名な高山右近ですが「右近」というのは通称で、名乗りは重友、長房、友祥(ともなが)など幾つか伝わっています。しかし、当時の確かな史料には出てきません。1552(天文21)年の生まれで、父・飛騨守の影響を受け、若くしてキリスト教に入信しています。その信仰が右近の人生を大きく左右していきます。
秀吉の下で大名に
摂津(大阪府北部など)を拠点としていた右近は、織田信長から摂津一国を任された荒木村重の与力となり、高槻城(大阪府高槻市)の城主となります。1578(天正6)年、村重が信長に反旗を翻した際は右近もそれに同調。信長は村重の居城・有岡城を明智光秀らに攻めさせるとともに与力の切り崩しにかかります。右近が熱心なキリシタンであることに着目した信長は宣教師のオルガンティーノを使って、右近の説得に当たらせています。
「開城降伏すれば、そのまま布教を許可するが、応じなければキリスト教を弾圧する」との脅しに屈した右近は、有岡城に身内を人質として出していたのですが信仰の方を取りました。その後は信長に優遇され、高槻城下には教会やセミナリオ(神学校)が建ち、「イエズス会日本年報」によると、その頃、高槻周辺の人口2万5000人のうち1万8000人がキリシタンだったといいます。右近のすすめで、蒲生氏郷や黒田官兵衛もこの頃、入信しました。
有岡城落城後は明智光秀の与力となりましたが、1582年6月13日の山崎の戦いでは光秀につかず、逆に羽柴秀吉に属し、先鋒(せんぽう)として秀吉軍勝利に貢献しました。その後、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州雑賀攻め、四国攻めに従軍し、1585年には播磨明石城主6万石の大名となっています。
「大名か信仰か」の二者択一
ところが、それから2年後の1587年、秀吉の九州攻めのとき、それまでキリスト教を容認していた秀吉が突然、「バテレン追放令」を出したのです。キリシタンに対する迫害が激しくなる中、右近らキリシタン大名にも棄教を迫る動きが強まりました。大名としての地位を守るために信仰を捨てるか、信仰を守るために大名を捨てるかの二者択一を迫られる形になったのです。
このとき、ほとんどのキリシタン大名は信仰を捨て、身の安全を図ったのですが、右近は信仰を守り通す道を選びました。そのため、所領を奪われ、浪人となってしまったのです。本当の宗教者として生き抜く覚悟を示したわけですが、なかなか、まねのできる生き方ではありません。
その後、同じキリシタン大名でありながら、表向き信仰を捨てた形にして、大名として残る道を選んだ小西行長の世話になり、当時、小西領だった小豆島でひっそりと生活。その小西行長が肥後(熊本県)に転封された際は、前田利家が右近の身柄を引き取る形となりました。こうして、右近は金沢に移っています。
金沢では、金沢城の縄張りをしたり、1590年の秀吉による小田原攻めのときに前田軍の一員として出陣したりと武将としての働きもしていますが、宗教者としての顔も見せています。キリスト教への弾圧が強くなる中、右近は金沢に南蛮寺を建て、布教活動も根強く続けていたのです。それを前田利家とその子・利長も容認していました。
ところが、キリスト教に対する弾圧は徳川家康政権下でさらに徹底されます。家康によって、1613(慶長18)年にキリスト教禁止令が出されるにおよび、前田家でも、右近をそのまま抱えこむことができず、翌年9月24日、右近は妻ジュリアンら百余人の教徒とともにルソン(現在のフィリピン)に追放されてしまいました。そして、1615(元和元)年2月、マニラで病没しています。
大名の地位を奪われても、国を追われても信仰を貫いた、まれな武将といっていいでしょう。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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