小室圭さんを「国民的いけにえ」にする日本人の心理とは
罪を犯したわけではないにもかかわらず、なぜ、小室圭さんにバッシングを浴びせ続ける人がいるのでしょうか。心理学の視点から分析します。

本人が何らかの罪を犯したわけでもないにもかかわらず、毎回、続報が取り上げられるたびに異常なバッシングに見舞われる小室圭さん。もはや、「国民的アイドル」ならぬ「国民的いけにえ」といった感がありますが、なぜ、ここまで激しく燃え上がるのでしょうか。眞子さまとの結婚や小室さんの母親を巡る借金トラブルを踏まえつつ、進化心理学の視点から分析してみたいと思います。
「共同体の神聖な支柱」としての皇室
結論から言うと「常識的に許されないものが神聖な場所に入り込んだことに対する直観的な嫌悪感」がまずあり、それらの強烈な情動に基づく知見によって多くの人々が論評しているので、炎上を回避することはほとんど不可能なのです。これは皇室を敬愛し、神聖視する国民の意識の強さの表れとも言い換えられます。
道徳心理学者のジョナサン・ハイトは著書「社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学」(高橋洋訳、紀伊國屋書店)で、人間の道徳心は6つの道徳基盤によって構成されていると説きました。それは「ケア」「公正」「自由」「忠誠」「権威」「神聖」です。それぞれが進化の過程で獲得された認知モジュール(脳内にある小さなスイッチのようなもの)で、文化ごとにその内容は異なっているといいます。
とりわけ、「神聖」のモジュールはもともとは病原菌などの「汚染を避ける」という適応課題によって出現したとされ、それが概念的な意味を含むタブーへと発展していきました。ハイトは「<神聖>基盤は、悪い意味でも(汚れている、あるいは汚染しているので)、よい意味でも(神聖なものを冒とくから守るために)、何かを『手を触れてはならないもの』として扱えるようにする」と述べています。
恐らく、日本人にとって、この神聖モジュールが最も強く作用しているのが皇室なのではないでしょうか。このモジュール=スイッチが非常に厄介なのは、思考以前の深い情動レベルの働きだからです。つまり、ある行為が「非難すべきか、罰すべきか」を直観的に方向づける影響力を持っているのです。
ハイトは共同体の神聖な支柱として「もの(国旗、十字架など)、場所(国家の誕生にまつわる戦場の跡など)、人物(聖者、英雄など)、原理(自由、博愛、平等など)」といったものを挙げ、「神聖の心理は、互いに結束して道徳共同体を築く方向に人々を導く。道徳共同体に属する誰かが、その共同体の神聖な支柱を冒とくすれば、集団による情動的かつ懲罰的な反応がきわめて迅速に起こるはずだ」と指摘します。
要は、ここにある「共同体の神聖な支柱」が皇室なのです。そして、「集団による情動的かつ懲罰的な反応」とは、今回の小室家バッシングを指していることは容易に想像されます。「母親が元婚約者から借りた400万円をうやむやの状態にしたまま、ロイヤルファミリーに取り入ろうとする不誠実な親子」は「神聖な支柱を冒とくする人々」となるのです。
令和の時代に突入してもなお、この神聖モジュールが皇室にしっかりと結び付いているだけでなく、怒りと不快感を瞬時に引き起こすポテンシャルを秘めているのです。小室家バッシングが皇室である秋篠宮家に飛び火している理由についても、「中の人」が「冒とくする人々」に手を貸していると認識されたと考えれば、何も不思議な現象ではありません。
しかも、この一連の騒動はハイトが主張した道徳基盤の「公正」「権威」「忠誠」のモジュールにも関係しています。公正は欺瞞(ぎまん)や詐欺(借金問題など)、権威は階層制の否定(「皇室食い」とも思える強引なアプローチ)、忠誠は集団への背信(国民の声を無視する態度)によって情動が突き動かされた側面もあるのです。つまり、6つの道徳基盤のうちの4つのスイッチを作動させる、極めて人々の神経を逆なでする出来事と捉えることができるのです。これが小室家バッシングの深層にある「聖域の侵犯」仮説です。
ちまたでは、晴れて借金問題が片付き、「一時金」も辞退するのであれば「結婚はご勝手に」といった風潮も見られますが「聖域の侵犯」が強力に働いていれば、そもそも、皇族と親戚関係になること自体が問題化します。そのため、究極的には「税金が使われなければよい」という話ではないのです。これはいわば、みそぎが通用しない事態を意味します。仮に眞子さまが一時金を辞退して皇籍を離脱しても、本質的には「聖域の侵犯」が解決されない限りはいかなる処方箋も無効となる可能性が高いといえます。
私たちにとって、ハイトのいう道徳基盤は通常あまり意識に上ることはありませんが、今回の皇室をめぐるすさまじいほどの個人バッシングは人々の心に極めて引火性の高い爆弾のスイッチが存在していること、それが皇室の聖性と想像以上にシンクロしていることを改めて浮き彫りにしたのです。
(評論家、著述家 真鍋厚)
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