「細菌やウイルスは神の罰なのですか?」 ある神父の説教を分析する
ペストに襲われたアルジェリアのオラン市が舞台の小説「ペスト」に、新型コロナを受けた私たちの生き方を探ります。
新型コロナウイルスは私たちの暮らしを大きく変化させました。私たちはこれからどう生きるべきなのでしょうか。ノーベル文学賞受賞者のアルベール・カミュによる、ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台とした小説「ペスト」にそのヒントが隠されています。今回は原書を要約した「60分でわかるカミュの『ペスト』」(あさ出版)から、コロナ禍における生き方を考察してみます。
ペストは神の罰なのです
カミュの「ペスト」には、さまざまな立場の人間がペストをどのように捉えて向き合っていくかが書かれています。オラン市の教会では祈祷(きとう)期間を開催することで、ペストに対抗することを決定します。そして、パヌルー神父にミサでの説教者の役が任されました。
大聖堂は満席でした。ペストが流行する以前から教会に通っていた人間だけではなく、多くの一般市民も祈祷に参加したのには2つの理由がありました。1つ目は街が封鎖され、港も閉鎖となり、海水浴ができなくなったこと。日曜ミサのライバルが海水浴だったので、ライバル不在が1つ目の理由として挙げられます。
2つ目は市民が不安定な精神状態にあったことです。自分たちが特殊な事情に置かれていることは分かっています。分かってはいるものの、どうすればいいのか。絶望しているわけではありませんが、どうすれば、この極限状況を乗り切れるのか誰か教えてほしい。参加者は自分たちを引っ張ってくれる頼みの綱を求めていました。
教会は「答え」の正当性を担保しうる最高の適任者を用意しなければいけませんでした。それがパヌルー神父だったのです。その日はあいにく、どしゃ降りの雨にもかかわらず、外にも聴衆があふれていました。
神父の説教は「皆さん、あなたたちは災厄の中にいます。それは当然の報いなのです」という痛烈な一撃から始まります。さらに、旧約聖書「出エジプト記」の記述を引用し、「災厄はおごれるものたちをひざまずかせるためにあります。このことを肝に銘じ、『神の災厄』の下にひざまずきなさい」と続けました。
雨は激しさを増します。パヌルー神父を取り巻く空気は静まり返っていました。聖堂の中の聴衆は一人、また一人とひざまずき始め、やがて、すべての聴衆がひざまずきました。
私はあなたを真理に導く
「私はあなたたちを真理へと導きます。情け容赦ないことを伝えましたが、あなたたちには喜びを知ってもらいたい。善意ではなく真理に服しなさい。神の慈悲は善と悪を、怒りと憐みを、ペストと救いをセットにしています」と説きます。
パヌルー神父は今日ほど、神の救いとキリスト教の希望が万人に差し出されていることを感じたことはありませんでした。ペストの惨状すら、瀕死(ひんし)の人間の叫びすら、彼には天にささげる「愛の言葉」になっていたのです。しかし、この「愛の言葉」には、本人もまだ気付いていない本質的な欠陥がありました。
説教は聴衆に対して、ある示唆を明確にしました。聴衆は理由が分からない罪を宣告されたからです。さらに、降りかかった災厄には意味があり、必然だと思わせました。日本にも同義の言葉として「天罰」「天誅(てんちゅう)」があります。人間を超えた存在が人間をこらしめ、償いとして与える苦しみのことを指します。言葉の持つ危険性をカミュは見事に押さえていました。
その後、数カ月が経過しても、ペスト禍からの収束にはほど遠いことが明らかでした。パヌルー神父が2回目の説教を行う日になりました。彼はためらうように話し出します。主語は「あなたたち」ではなく「私たち」に変わっていました。先の説教の欠陥。それは、パヌルー神父が「私」を欠いていたことでした。
「神について説明できることと説明できないことがあります」。パヌルー神父は力を込めて言います。「罰を受けるべき者が罰を受けることは正当であっても、子どもたちがむごたらしく苦しむことは納得できません」。パヌルー神父は異端スレスレのところに来ているようでした。
ある日、主人公にパヌルー神父から「病院へ運んでほしい」と伝言があります。教会に向かうと、神父は一切の医療行為を拒否し、自らの命を神の手に預けていました。しかし、十字架だけは放しませんでした。これがパヌルー神父の死にざまだったのです。
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