【戦国武将に学ぶ】豊臣秀吉~天下統一を果たした「出世人」が変貌した理由~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

豊臣秀吉は、あまたの戦国武将の中でも企画力が抜群で、知恵もあり、さらに行動力も抜きんでていました。今日の人物調査書にあてはめれば、ほとんどの項目で「特に優れている」というところに丸がつけられるのではないでしょうか。
交渉術と行動力で出世
さて、その秀吉ですが、1537(天文6)年、尾張(愛知県西部)の貧しい農民、弥右衛門・なか夫婦の間に生まれています。秀吉の履歴について、以前はよく、「織田信秀の鉄砲足軽・木下弥右衛門の子」と書かれていましたが、2カ所間違いがあります。弥右衛門が亡くなったのは1543年で、鉄砲が種子島に伝来したのはその1543年ですので、その当時、織田家に鉄砲足軽がいたはずがありません。
また、秀吉が「木下」という名字を名乗るのは、1561(永禄4)年に、おねと結婚してからです。秀吉は、おねと結婚することによって、おねの実家の木下という名字を名乗ることができたわけで、それまでの秀吉は名字を持てない階層の人間だったのです。貧しい生まれだっただけに「母を早く楽にさせたい」とがむしゃらに頑張ったのではないでしょうか。
秀吉は、譜代門閥主義でなく能力本位の人材登用をした織田信長に仕えたため芽が出ました。というのは、秀吉は知恵はありましたが、これといった槍(やり)働きはなく、武功だけの評価では、あれだけの急な出世はなかったと思われるからです。秀吉の交渉術、もっといえば話術の才が信長に認められ、出世の階段を上ることになったのです。
秀吉のライバルだったのが、同じ「中途入社組」の明智光秀でした。その光秀が1582(天正10)年6月2日、本能寺の変で主君・信長を討った後、例の「中国大返し」と呼ばれる超ハイスピードの強行軍で畿内に戻り、山崎の戦いで光秀を打ち破ります。
もちろん、その時点では、織田家臣の序列としては上に柴田勝家がいました。しかし、その後の清洲会議、さらに翌年4月21日の賤ケ岳の戦いで勝家を破り、織田政権簒奪(さんだつ)に成功。1590年の小田原攻めによって、ついに天下統一を果たしました。
補佐役失い、暴走始める
確かに、そこまでの秀吉は「見事だ」の一言に尽きます。ところが、ここから先、それまでの秀吉とは違う秀吉が姿を見せることになります。
例えば、単なるお茶の先生「茶頭(さどう)」ではなく、内政顧問のような立場だった千利休を切腹させたり、「無謀」といわれた朝鮮出兵を始めたりしています。さらには、一度は養子に迎え、関白の地位まで譲った豊臣秀次を切腹させ、その妻子39人を京都の三条河原で虐殺といってよい殺し方で殺しているのです。
秀次とその一族を葬り去ったのは、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生まれ、養子ではなく、実子・秀頼に豊臣政権を引き継がせたいという秀吉の思いから生じたものですが、実は、秀吉晩年の不祥事や暗黒事件といわれる事柄が、1人の男の死の直後から始まっていることに気が付きます。その1人の男というのが、秀吉の弟・秀長です。
本によっては秀長を異父弟と書いたものもありますが、その後の研究で、秀吉の実弟であることが明らかになっています。その秀長が1591(天正19)年正月21日に病気で亡くなり、その直後から、先述の千利休切腹事件など、さまざまな不祥事が続けて起こっているのです。
歴史の表側にはあまり出てきませんが、秀吉は弟・秀長の補佐によって、上手に政治のかじ取りをしていたのです。ブレーキ役兼ナビゲーター役を務めていた秀長の死によって、秀吉の暴走が始まってしまったと考えられます。補佐役の重要性を示す事例といえるかもしれません。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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