「花見」はいつから「宴会」になったのか 自粛ムードの今年、楽しみ方は?
新型コロナウイルスの影響で、花見の自粛が呼びかけられたり、「桜まつり」などのイベントが中止になったりしていますが、「花見=宴会」になったのは、いつからなのでしょうか。
東京で3月14日に桜(ソメイヨシノ)の開花が宣言され、例年なら花見ムードが盛り上がる時季ですが、今年は新型コロナウイルスの影響で様相が一変しています。感染拡大を避けるため、各地で花見の自粛が呼びかけられたり、「桜まつり」などのイベントが中止になったりしているためです。
そんな中、愛媛県が「花見の一斉自粛は求めない」という方針を示しつつ、「多人数での開催やオードブル形式での会食は避ける」などと呼び掛ける看板を公園に設置した、との報道がありました。「花見」と「宴会」を区別するものですが、「花見=宴会」と考える人からは残念がる声も聞こえてきそうです。
そもそも、花見はいつから「宴会」になったのでしょうか。和文化研究家で日本礼法教授の齊木由香さんに聞きました。
当初は「梅の花見」、貴族が歌を詠む会
Q.花見はいつごろ、どういう人たちの間で始まったのでしょうか。
齊木さん「花見は、日本人が古来楽しみにしてきた春の行事です。花見の根底となる風習は、奈良時代に形づくられたといわれています。この頃、貴族の間では『歌を詠む』ことが優雅な風習として行われていました。
また、当時の日本は、遣唐使を介した中国との交易を盛んに行っていました。中国文化や物品も多く日本に伝わり、その中に梅の花がありました。香り立つ梅の花は貴族の間で珍重され、梅の花を見ながら歌を詠む会を開いたことが、花見の始まりといわれています」
Q.花見は最初から宴会だったのでしょうか。それとも、物静かに花を楽しむものだったのでしょうか。
齊木さん「先述したように、当初の花見は今の宴会のように騒がしいものではなく、『貴族』だけの風習として、美しい梅の花を見ながら物静かに歌を詠み、楽しむものでした。
なお、現代では『花見』といえば『桜』と考える人が多いと思いますが、当初は梅の花を見るものでした。現代のように桜の花見が主流になったのは、平安時代といわれています。当時は梅の花の人気が高かったものの、桜の花も大切にされていました。
それは、『サクラ』という名前の由来からも分かります。『サ』は田んぼの神様、『クラ』は神様の座る場所を意味しており、『サクラ』は神様が山から下りてきて、いったんとどままる『依代(よりしろ)』と考えられていたため、『サクラ』となった、との説があります。
美しい桜の花が咲く時期が田植えに最適な時期と考えられ、桜は観賞するというよりは、『神様が宿る神聖な木』とされていました。それが、894年に菅原道真の提言で遣唐使が廃止されると、大陸文化の影響が弱まります。すると、日本古来の文化や美徳への注目が集まり、古来大切にされて来た桜が花見の花として定着していったと考えられます」
Q.最初は静かなものだった花見が、現在よく見られる「宴会がメインの花見」に変わったのはいつごろでしょうか。
齊木さん「宴会がメインの花見へと変わっていったのは、織田信長や豊臣秀吉が中央政権を握っていた安土桃山時代と考えられます。特に、秀吉が開いた『吉野の花見』や『醍醐(だいご)の花見』をきっかけに、花見は盛大なものとなっていきます。
吉野の花見は、秀吉の絶頂期である1594年に開かれました。それは盛大な花見で、大阪から運んだ1000本の桜が吉野山(現在の奈良県吉野町)に植えられ、5000人が招かれたといわれています。
そこでは、徳川家康、前田利家、伊達政宗といった当時の有力武将も多く呼ばれていました。この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会、歌の会、能の会が開かれたといいます。
また、1598年の醍醐の花見は1300人を連れて、現在の京都市伏見区で開催されたといわれています。このような盛大な花見から、宴会行事としての花見が定着していったと考えられます」
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