【戦国武将に学ぶ】安国寺恵瓊~本能寺の変を予見した眼力、味方の裏切りは見破れず~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は名前の示す通り、僧侶です。僧侶ですが、武将の子として生まれていることや豊臣政権下で6万石の大名となっていること、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで西軍の主力となったことから、ここでは武将として扱います。
守護大名の家に生まれる
「世が世ならば」という言い方がありますが、恵瓊はそれこそ「世が世ならば」、毛利元就の主君となっていた可能性がありました。というのは、恵瓊の父は武田信重(のぶしげ)といって、安芸(広島県)の守護大名で、銀山(かなやま)城(広島市安佐南区祇園)の城主であり、その下にいたのが国人領主の一人・毛利元就だったからです。
元就によって1541(天文10)年5月、銀山城は攻め落とされます。信重の子で、その頃「竹若丸」といっていた子どもが、城が落ちる前に脱出し、安芸の安国寺に逃げ込みました。この竹若丸が後に、恵瓊になるのです。
このとき、竹若丸は出家し、安国寺の住職だった竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になります。ただ、出家したとはいっても、初めのうちは「武田氏を再興したい」と考えていたようです。しかし、1555(弘治元)年、厳島(いつくしま)の戦いで、元就が陶晴賢(すえ・はるかた)を破り、旧大内領を併合して大大名になるのを見て、武田氏再興の夢を諦めたようです。
秀吉の将来性も見抜く
1560年代の終わりごろから、恵瓊が毛利氏の使僧(しそう)として登場します。恵瓊の使僧としての活躍ぶりがよく分かるのが、1573(天正元)年、織田信長との交渉のために上京したときのことです。
このときの上京の目的は、元就の孫に当たる輝元の意を受けて、毛利氏を頼ってきていた足利義昭の処遇について信長側と協議することでした。単なる使僧というよりは、軍師といってもいいのかもしれません。
注目されるのは、このときの交渉内容を輝元の家臣に報告した際の記述です。「信長の代、五年三年は持たるべく候(そうろう)。明年辺(あたり)は公家などに成らるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候」と、9年後の「本能寺の変」を予見しているのです。驚くべき予知能力の持ち主だったと思われます。
しかも、その続きで「秀吉はすごい」と、後に天下人となる秀吉を高く評価している点も見逃せません。
この後、1582年、本能寺の変後の秀吉との講和交渉でも、毛利側を代表していたのが恵瓊でした。さらに、秀吉が天下統一を果たすと、朝鮮出兵にも従軍するなどして、豊臣大名の一人として、最終的には石高6万石の大名にまでなっています。
西軍中枢で働き、家康に断罪される
こうしたいきさつもあり、石田三成とは特に親しく、1600年の関ケ原の戦いで、恵瓊は毛利輝元を西軍総帥に迎えることを提案し、三成と大谷吉継がそれに同意。直接、輝元に交渉したのは恵瓊でした。戦後、徳川家康が三成に対するのと同様の厳しい態度で臨んだのは、このときの恵瓊の働きぶりが大きかったことの裏返しであったように思われます。
恵瓊はこの後、伏見城攻撃や伊勢攻めにも加わっており、完全に三成の手足となって動いています。なお、9月15日の合戦当日、恵瓊は1800の兵を率いて、南宮山の北麓に布陣していました。
その南宮山には、毛利一族の毛利秀元、および吉川広家が陣取っていたのですが合戦当日、吉川広家が家康に通じていて軍を動かさず、さらに松尾山の小早川秀秋の裏切りもあり、西軍敗北となりました。予知能力があった恵瓊も、吉川広家の心までは読めなかったようです。
結局、恵瓊は10月1日、三成、小西行長とともに京の六条河原で処刑されました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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