【戦国武将に学ぶ】大谷吉継~友を支え関ケ原に散った名将、献花絶えず~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
大谷吉継は、関ケ原の戦いで西軍だった武将の中で人気が高いことで有名です。関ケ原古戦場(岐阜県関ケ原町)の大谷吉継の陣所があった近くにある墓所には、いつも新しい花が供えられています。
石田三成と共に行動
吉継は従来の通説では、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟の家臣だった大谷盛治の子といわれてきましたが、宗麟家臣の子が豊臣秀吉に仕えるようになった接点が見つからないことから、最近では、近江(滋賀県)の出身ではないかと考えられています。
生まれは1559(永禄2)年で、石田三成より1歳年長です。秀吉に仕えるようになった時期も同じ頃と考えられるのですが、三成の「三献茶」のようなエピソードの類いは伝えられていません。ただ、1577(天正5)年から始まる秀吉の播磨平定の戦いには馬廻(まわ)りとして出陣していますので、それより以前だったと思われます。
1585年、秀吉が関白になったとき、従五位下・刑部少輔(ぎょうぶのしょう)に叙任され、以後、大谷刑部の名前で知られるようになります。吉継は、いつのころからか病を患っていますが、秀吉からは重く用いられ、三成と同じく、各種奉行で辣腕(らつわん)をふるっています。
1587年の九州攻めでは、三成と共に兵站(へいたん)奉行を務め、2年後には越前敦賀(つるが)城主となり、5万石の大名になっています。
1592(文禄元)年から始まる朝鮮出兵に際しても、三成と共に船奉行として軍船の調達にあたり、自らも渡海していますが、その頃から病がさらに重くなったらしく、次第に姿を見せなくなります。
家康の指導力を高く評価
このように常に行動を共にし、親友といってよい仲の2人でしたが、吉継と三成は家康に対する評価は違っていました。1598(慶長3)年8月18日に秀吉が亡くなり、家康が天下取りの動きを露骨にし始めた段階でも、吉継は家康の指導力を高く評価していたのです。
そのため、1600年、家康が会津の上杉攻めに向かったとき、吉継は病を押してそれに従軍しようと敦賀城を出て、北国脇往還を通って中山(なかせん)道の垂井(たるい)宿まで進軍しています。
その垂井宿に着いたところで、近江佐和山城に蟄居(ちっきょ)中の三成に呼ばれ、7月2日のことになりますが、そこで初めて三成から、家康との戦いに立ち上がることを打ち明けられています。
吉継は三成の軽挙妄動をいさめ、やめるよう説得し、垂井宿に一度戻って上杉攻めに向かおうとしました。しかし11日、吉継はそれまでの三成との友情を考え、三成と行動を共にする決心をし、佐和山城に入っています。
そこで軍議が開かれ、三成・吉継のほか、増田長盛(ました・ながもり)、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が加わり、このとき、吉継は三成に「おぬしでは首将は務まるまい」と言ったといわれています。有力大名で三成を嫌っている者が多くいることを吉継は知っていたのです。そこで五大老の一人、毛利輝元を総帥に迎えることになりました。
こうして、9月15日の関ケ原の戦いとなります。吉継は、去就に不安を感じていた松尾山の小早川秀秋隊をけん制すべく、松尾山の麓に布陣していたのですが、結局、秀秋の裏切りで小早川隊の攻撃目標にされ、わずか1500ほどの兵の大谷隊は支えることができず、吉継は自刃しています。この大谷隊の壊滅が、戦いの流れを大きく変えることになり、西軍の敗北となったわけです。
「刎頸(ふんけい)の交わり」という言葉があります。その友のためなら、首をはねられても後悔しないほどの、固い男子の交わりといった意味ですが、吉継と三成の2人の関係はまさに「刎頸の交わり」そのものといってよいと思います。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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