【戦国武将に学ぶ】細川藤孝~朝廷が命を守った文化人大名~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

細川藤孝は、室町幕府幕臣・三淵晴員(みつぶち・はるかず)の次男として1534(天文3)年に生まれています。12代将軍・足利義晴の命令で和泉(大阪府南西部)半国守護・細川元常の養子となり、元服のとき、義晴の嫡子・義藤の一字を与えられ、藤孝と名乗りました。ちなみに、この義藤は名を義輝と変え、13代将軍となります。
「古今伝授」を受けた歌才
藤孝は以後、この義輝の側近として、義輝が三好長慶(ながよし)に追われ、近江(滋賀県)の朽木谷(くつきだに)に逃れたときも行動を共にしています。
1565(永禄8)年、その義輝が三好三人衆らによって殺害されると、奈良の一乗院にいた義輝の弟の覚慶(かくけい)を次期将軍にしようと幽閉先から救出し、近江、若狭としかるべき大名を求めて転々とし、越前の朝倉義景のところに落ち着きます。その間に覚慶は還俗(げんぞく)して、はじめ義秋、ついで義昭と名乗ります。
ところが、朝倉義景は義昭を擁して上洛(じょうらく)する意思はありませんでした。途方に暮れていた義昭・藤孝主従に「織田信長を頼ったらどうですか」と声をかけたのが明智光秀でした。その頃、光秀は朝倉氏の家臣になっていましたが、いとこが信長の正室の帰蝶だったといわれており、その関係から信長を紹介したと思われます。
この後、義昭は信長に擁立されて上洛を果たし、15代将軍となり、藤孝はその側近として公家たちとの交渉もこなしていきます。和歌・連歌・能楽などの文化面での教養があり、1572(元亀3)年には「古今和歌集」の解釈などを秘伝として受け継ぐ「古今伝授」を受けているほどです。
義昭と信長の仲がよかった間は問題なかったのですが、やがて2人が対立し始めると、藤孝は義昭をいさめるようになります。ところが、かえって義昭の不興を被り蟄居(ちっきょ)させられる始末で、結局、藤孝は義昭を見限り、信長についています。
義昭の家臣としては光秀より藤孝の方が上だったのですが、信長家臣となった時点では光秀の方が上でした。ただ、信長も2人の関係は気にしていたものとみえ、光秀の娘の玉(後のガラシャ)を藤孝の嫡子・忠興に嫁がせるよう取りはからっていました。
この後、藤孝は光秀と軍事行動を共にしますが、軍団長・光秀の下で藤孝が指揮に従うという形になり、1580(天正8)年、光秀が丹波一国を与えられたとき、藤孝も丹後一国を与えられ、2人はよく連歌会で一緒になっています。光秀も、藤孝がいたから文化的教養を身につけることができたといってよいでしょう。
盟友・光秀との関係を断ち切る
室町幕府の再興を夢みた同士、あるいは戦友といってよい藤孝と光秀の2人でしたが、1582年6月2日の本能寺の変後、藤孝は光秀からの誘いを蹴っています。藤孝なりに「この謀反は成功しない」と読んでいたとも考えられますが、もう一つ、自分と光秀との上下関係が逆転したことを面白く思っていなかった可能性もあります。
家を残すためとはいいながら、盟友との関係を断ち切ってしまう冷たさのような面が見受けられます。豊臣政権における、石田三成と大谷吉継の関係との違いが感じられます。
さて、光秀からの誘いを蹴った藤孝ですが、すぐ剃髪(ていはつ)し、「幽斎玄旨(ゆうさいげんし)」と称しています。同時に、家督を子の忠興に譲っています。その後は、諸将や公家に「古今集」を伝授したり、「新古今集」の写本の校正をしたり、「出雲国風土記」の書写をしたり、文化人大名としての生活を送っています。
藤孝、すなわち幽斎の名がもう一度表面に出てくるのが、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いです。東軍として丹後田辺城に籠城したとき、西軍に包囲されるのですが、歌道の絶えるのを惜しんだ朝廷が勅命を下し、和睦、開城の運びとなりました。
2カ月近く城を守ったことで、西軍側のおよそ1万5000という大軍は関ケ原の決戦に向かえず、藤孝は東軍の勝利に大きく貢献しました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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