【戦国武将に学ぶ】加藤清正~人材登用もユニークだった築城・土木の名人~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

加藤清正は1562(永禄5)年、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。母が豊臣秀吉の生母の伯母にあたることから、同郷出身の秀吉に仕え、子飼いの武将といわれています。
熊本城築城前に洪水対策
1583年の近江賤ケ岳の戦いで、同じく子飼いの武将である福島正則とともに大活躍して「賤ケ岳七本槍」の一人にカウントされ、一躍、3000石を与えられました。
1587(天正15)年の秀吉による九州攻め後、肥後(熊本県)を与えられた佐々成政(さっさ・なりまさ)が肥後の統治に失敗して切腹させられた後は、清正が北肥後25万石を与えられ、熊本城を居城とすることになりました。
このような場合、普通は自分の居城をまず築きますが、清正は違っていました。領内を流れる菊池川、緑川、白川という3本の川がよく氾濫することを知り、居城の熊本城を築く前に、それぞれの川の大規模な堤防工事を始めたのです。これが「清正堤」で、洪水被害は激減したといわれています。
清正といえば、築城名人として知られていますが、こうした治水の業績から「土木の神様」ともいわれています。もちろん、清正自身もそうした土木技術を身につけていましたが、実は、飯田覚兵衛と森本儀太夫という2人の家臣が、今で言うテクノクラート(技術官僚)でした。清正はこの2人を家老に抜てきし、築城・築堤を進めていたのです。
その清正の人材観をうかがわせる興味深いエピソードがいくつか伝えられています。一つは、斑鳩(いかるが)平次という侍について。この斑鳩平次は上杉謙信の元家臣で、上杉家でかなりの高禄を食(は)んでいたそうです。ところが、清正に仕えるとき、「微禄でよい。その代わり、一手柄500石頂きたい」と申し出ると、清正はそれを認め、その後、7度の槍功名によって最終的に3500石を食むことになりました。
もう一人が坂川忠兵衛という侍です。清正の親衛隊である母衣(ほろ)武者を選ぶ際、清正は家中の侍による入札(いれふだ)によって決めることにしました。入札というのは今でいう投票で、主君清正の恣意(しい)的な判断でなく、「母衣武者にふさわしい」と衆目の一致する者を指名しようとしたのです。
このことだけでも清正の人材観をうかがわせますが、その入札で自分の名前を書いて投票した者が出ました。それが分かったということは、入札は無記名投票ではなく、記名投票だったのでしょう。そして、自分の名前を書いたのが、その坂川忠兵衛という侍だったのです。
怒った清正は早速、坂川忠兵衛を呼び出し、詰問しました。すると、当の忠兵衛は少しも臆することなく、自分がやった行為を説明しました。忠兵衛は「他人のことは分からない。母衣武者として最適なのは自分だと思って自分の名を書きました」と返答。一本取られた形の清正は、忠兵衛を母衣武者に加えたということです。
キリシタンからは厳しい評価も
築城、土木、人材登用などの面で、多くの功績やエピソードを残した清正でしたが、ある一面では厳しい評価も受けています。
清正は熱烈な日蓮宗信者でした。秀吉時代、南肥後を支配していたのは、キリシタン大名の小西行長。1600(慶長5)年の関ケ原合戦後、南肥後も手に入れた清正は、南肥後のキリシタン弾圧を進めました。戦国時代から日本での布教を進めてきたイエズス会の記録には、「道徳観念に欠けた人」、さらには「キリシタンの鬼」などと書かれています。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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