「ブタはオオカミに食べられ…」 昔話の読み聞かせ、残酷な物語もそのまま伝えるべきか
幼い頃に読み聞かせしてもらった絵本を、書店で改めて読んでみると、物語の結末が「なんだか違う」と感じることはありませんか。
書店に行くと、自分が幼い頃に読み聞かせしてもらった絵本に出会うことがあります。しかし、大人になった今、物語の結末を見ると「なんだか話が違う」と感じることはありませんか。
現代の絵本は「オオカミがヤギに謝る」
例えば、「オオカミと7匹の子ヤギ」というグリム童話があります。「子ヤギを食べたオオカミは、母ヤギにおなかの中に石を詰められ、井戸に落とされて死んでしまう」という物語ですが、現代では「オオカミはヤギに謝り、その後はみんなで仲良く、いつまでも幸せに暮らした」という結末となっている絵本があります。
また、「3匹の子ブタ」は「わらの家を建てた1番目の子ブタ、木の家を建てた2番目の子ブタはどちらもオオカミに家を吹き飛ばされ、食べられてしまうが、れんがの家を建てた3番目の子ブタだけは助かる」というお話ですが、現代では「1番目と2番目の子ブタはれんがの家に逃げ込み、全員助かった」、さらには「オオカミと仲直りをした」となっているものもあります。
「残酷な結末にしてしまうと、それを読んだ子どもが残酷な人間になってしまう」という思いからなのでしょうか、それとも、出版社にクレームが寄せられたのでしょうか。大人の立場からしてみれば、昔読み聞かせてもらっていたお話とは異なります。
絵本で疑似体験できることの大切さ
そもそも、グリム童話やイソップ童話、日本の民話といった昔話には、残酷なものが多くあります。次の物語はその一例です。
【白雪姫】(グリム童話)
白雪姫は、毒リンゴを食べさせて自分を殺そうとした魔女を、王子との婚礼の席に招き、炎であぶって焼けた靴を履かせて死ぬまで踊らせた。
【オオカミ少年】(イソップ童話)
「オオカミが来た!」と何度もうそをつき、周囲の大人をだました少年。最後は本当にオオカミが現れるが、少年は誰からも信用されず、食べられて死んでしまった。
【かちかち山】(日本の民話)
おばあさんはタヌキにだまされて殺され、みそ汁にされる。それを食べたおじいさんは、残された骨を見て「ばあさまの汁」と知り、悔やむ。相談を受けたウサギは、おじいさんの代わりに敵討ちへ出かける。ウサギはタヌキの背負ったしばに火をつけ、やけどの治療薬と偽ってトウガラシを塗り、最後は土で作った舟に乗せて殺してしまう。
こうした物語に共通する「最後に悪者が痛い目に遭う」という結末から、子どもは「善が栄え、悪が滅びる」という勧善懲悪や、「よい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」という因果応報を学ぶことができます。
逆に、こうしたことを教訓として知らない子どもの方が怖いように思います。母ヤギが自分の子どもを殺されてもオオカミを許し、最後にみんなが仲良しになる結末だった場合、伝えたいことが曖昧になってしまう気がしてなりません。
絵本は、日常生活を送っているだけでは経験できないことを疑似体験させてくれるものです。人の道徳心や良心は生まれながらにして持っているものではなく、子育てによって養われるものです。そう考えると、昔話は学びとして最適だと思います。
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