【戦国武将に学ぶ】大友宗麟~貿易で強国築いたキリシタン大名、衰退招いた性癖~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
大友宗麟(1530~87年)といえば、キリシタン大名として知られています。天正少年遣欧使節の発起人でスポンサーでもありました。宗麟の城下町府内(ふない、現在の大分市)には、宣教師たちによってわが国初の育児院と外科病院が建てられました。
6カ国の守護務め、九州に君臨
もっとも、宗麟の入信は純粋な信仰心からというよりは、多分に打算的なものだったといわれています。宗麟の招きによって、周防の山口にいたフランシスコ・ザビエルが府内を訪れたのは1551(天文20)年8月ですが、実はその1カ月ほど前に、すでにポルトガルの商船が豊後の日出(ひじ)沖に姿を現しています。
これは、宗麟による領内での布教許可とポルトガル商船の来航がセットになっていた証拠といってよいでしょう。宗麟は、欧州からの物資を手に入れ、南蛮貿易によって国を富まそうと考えていたのです。
また、軍事面でも、宝満(ほうまん)城の高橋鑑種(あきたね)、立花城の立花道雪(元の名は、戸次鑑連=べっき・あきつら=)ら有能な家臣たちの軍事面での活躍もあり、どんどん版図を拡大していきました。室町幕府からは、豊後・筑後・肥前・肥後の4カ国の守護職を認められ、さらに、一時は筑前・豊前の2カ国の守護職も手にし、九州9カ国中6カ国を支配する一大勢力となったのです。
のち、南から島津氏が、西から龍造寺(りゅうぞうじ)氏が力を伸ばしてきたため、九州の統一こそ成し遂げられませんでしたが、島津氏・龍造寺氏と九州を三分する力を保っていました。戦国時代の名君の一人といってよいでしょう。
「暴君」ゆえの反乱から衰退へ
ところが、その名君が時には暴君でもあったのです。具体的に、暴君としての側面を物語るものの一つが剣術の稽古です。その頃、九州に流行していた大捨(たいしゃ)流という剣法に凝った宗麟が、近習の若者相手に稽古をするのですが、宗麟は真剣を使って稽古をしたといわれています。けが人が続出したことはいうまでもありません。また、あるときは、政治をほっぽり出して連日連夜、酒宴に明け暮れたともいわれています。
酒宴に関して興味深いエピソードが伝わっています。宗麟が酒宴を催すときは、特にお気に入りの側近たちだけなので、宗麟に諫言(かんげん)をしたいと思っても、宗麟に近づくことすらできませんでした。
立花道雪は、酒宴にふける宗麟に諫言する機会をつくるため、一つの計略を考えました。上方から美しい踊り子の一座を屋敷に呼び寄せたのですが、そのうわさを聞いた宗麟から、「踊り子を連れて登城せよ」との命令があり、登城した道雪が「酒宴ばかりなさらぬように」とくぎを刺したといわれています。
宗麟の暴君ぶりはそれだけではありませんでした。家臣の妻に美貌の者がいれば、その者を取り上げ、側室にしてしまうというものです。それで泣かされた家臣がどのくらいいたかは分かりません。しかし、たいていは泣き寝入りでした。
ところが、重臣の一人、一万田親実(いちまだ・ちかざね)の妻を取り上げたときには、親実の弟・高橋鑑種が宗麟に反旗を翻しています。その鎮定に3年かかり、これが大友氏衰退の原因の一つだったといわれています。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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