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【戦国武将に学ぶ】明智光秀~謀反の裏に隠された「心優しき知将」の実像~

戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

京都府亀岡市にある明智光秀像
京都府亀岡市にある明智光秀像

 明智光秀は来年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公ということで、にわかに脚光を浴びています。しかし、その前半生は謎だらけなのです。生年については3説、父親の名前についても3説、生誕地については4説もあり、実態をつかむのが難しい武将だということは間違いありません。

 同時代人の証言に「美濃国住人ときの随分衆也」とあることから、美濃(岐阜県南部)の守護だった土岐氏の分かれの明智氏で、通説では1528(享禄元)年の生まれとされています。美濃から越前に移り、越前の戦国大名・朝倉義景に仕えていたとき、義景を頼ってきた足利義昭を織田信長に引き会わせたことで信長の家臣となりました。

信長家臣団で最も早く「一国一城の主」に

 信長の譜代門閥主義ではない能力本位の人材抜てきのおかげで、光秀はみるみる頭角を現し、1571(元亀2)年には、信長家臣団における「一国一城の主」第1号となります。第2号が羽柴秀吉ですので、光秀の働きが抜群だったことが分かります。

 光秀は信長に仕える前、足利義昭の側近だった細川藤孝と親しかったといわれています。藤孝は文化人としても知られていて、恐らく、藤孝を通じて幕府人脈や朝廷人脈ともつながりを持っていたと思われます。信長が足利義昭を擁して上洛した後、光秀を京都奉行としていますので、文化的素養も評価されたのではないでしょうか。

 文化面だけでなく、武将としての力量も信長は買っていたようです。光秀は1575(天正3)年から丹波経略の大将となり、5年かかりましたが見事に丹波を平定しています。

 注目されるのは、周囲に見せた光秀の優しさです。信長は敵対した者とその家臣を排除していますが、光秀は敵対した相手でも、降伏後は自分の家臣に組みこんでいます。また、戦いで負傷した家臣に傷の具合を問う文書を出したり、戦死した者の供養のための米を寺に寄進したりしています。戦国武将には珍しい心優しい人だったようです。

 だからこそ、平気で人を殺す信長についていけなくなり、朝廷に対し強硬な態度を取る信長への反発もあって謀反を起こしたのかもしれません。

秀吉にあって光秀になかったもの

 人に対する優しさは人間として大事なことですので、光秀のプラス面であることは間違いありません。しかし、戦国時代を生きていく上で、それがネックになってしまったということも考えられます。光秀は乱世を生きていく上で、真面目さだけでなく、もう少し「ずるさ」があればよかったのではないかと考えています。

 この点は秀吉と比べると、よく分かります。本能寺の変後、秀吉は例の「中国大返し」で、猛スピードで上方に戻ってきますが、途中、信長家臣で光秀と関係の深い中川清秀を味方につけるため、「信長様はまだ生きている」とうその情報を流し、清秀は秀吉陣営に入っています。光秀には、そうした芸当はできなかったでしょう。

 戦国時代を生きた医師・儒学者である江村専斎の「老人雑話」に「筑前守(秀吉)は信長の手の者の様にて、其上(そのうえ)磊落(らいらく)の気質なれば、人に対して辞常にをこれり。明智は外様のやうにて、其上謹厚(きんこう)の人なれば、詞(ことば)常に慇懃(いんぎん)なり」という一文が載っています。豪放磊落な秀吉と謹厳実直な光秀の違いを指摘したものです。

 光秀も、もう少し秀吉に似て豪放磊落なところが欲しかったと思うのは、私だけでしょうか。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

【写真】明智光秀ゆかりの「大津」「亀岡」「京都」

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小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」の時代考証を担当している。

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