オトナンサー|オトナの教養エンタメバラエティー

【戦国武将に学ぶ】真田信繁~敵からも認められた「日本一の兵」~

戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

長野県上田市にある真田信繁像
長野県上田市にある真田信繁像

「真田信繁って誰?」といわれそうですが、あの「真田幸村」のことです。「幸村」という名前は、江戸時代のはじめに書かれた「難波戦記」という軍記物に登場し、それが広く知られるようになりましたが、本人は亡くなるまで信繁と署名しています。

 信繁は、信濃(現在の長野県)の国人領主・真田昌幸の次男として1567(永禄10)年に生まれました。兄は信幸(後の信之)で、関ケ原の戦いのとき、兄弟が東西に分かれたことはよく知られています。

逆境の中で軍法学ぶ

 信繁のすごいところは、逆境をむしろ逆手に取った生き方をした点です。父・昌幸が生き残りをかけ、有力大名たちの間であっちに付いたり、こっちに付いたりしたわけですが、信繁はその都度、人質に出されています。上杉景勝に付いたときは上杉家の人質となり、豊臣秀吉に付いたときは豊臣家の人質に出されています。

 上杉家の人質になっていたときには、上杉家の軍法を学んでいます。人質に軍法を教える家はありませんので、正確には「盗んだ」といってよいでしょう。豊臣家の人質となったときも同じです。昌幸は武田信玄・勝頼父子の重臣でしたから、父から武田家の軍法も受け継いだ信繁は、武田・上杉・豊臣という3大名の軍法を身に付けたことになります。これは、当時としてもめったにあることではありません。このことが、上田城の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で生きてくるのです。

 上田城の戦いは2度ありました。1度目が1585(天正13)年うるう8月で「第1次上田合戦」と呼んでいますが、この戦いに信繁が加わっていたかどうかは分かりません。「第2次上田合戦」が1600(慶長5)年9月で、このとき、信繁は昌幸とともに出陣。徳川秀忠の3万8000の大軍を上田城にくぎ付けにし、秀忠が関ケ原の戦いに間に合わないという事態をもたらしたことで知られています。

 しかし、周知のように、関ケ原の戦いは東軍・徳川家康方の勝利で終わります。家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとしますが、東軍に付いていた兄・信幸の助命嘆願によって死は免れ、高野山麓の九度山(くどやま)に流されることになりました。

10万石を断り、最期の戦いへ

 1614(慶長19)年10月、信繁の元へ、大坂城の豊臣秀頼から大坂方への参陣を求める使者が来ます。このとき、「勝利の暁には50万石の大名に取り立てる」との約束があったといわれていますが、信繁は恩賞よりも、一軍の将として戦うことを喜んだものと思われます。

 信繁はこの後、大坂城の守りが手薄な南側に出丸を築きます。有名な「真田丸」で、冬の陣における最大の激闘が繰り広げられました。結局、冬の陣は講和という形で終わり、大坂城の堀が埋められましたが1615年5月、夏の陣が始まり、信繁は家康をあと一歩のところまで追いつめ、敵方から「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」とたたえられるものの、最後は討ち取られてしまいます。

 このように大きな権力に立ち向かい、豊臣家のために散った信繁の人気は今もって高いわけですが、結局、信繁の系統は大名として残りませんでした。冬の陣では、叔父の真田信尹(のぶただ)からの、「東軍になれば10万石を与えると家康が言っている」との申し出を拒否しています。そのストイックな生き方がマイナス点かどうかは意見が分かれるところかもしれません。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

【写真】真田信繁ゆかりの「上田」「大坂」

画像ギャラリー

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」「どうする家康」の時代考証を担当している。オフィシャルサイト(https://office-owada.com/)、YouTube「戦国・小和田チャンネル」(https://www.youtube.com/channel/UCtWUBIHLD0oJ7gzmPJgpWfg/)。

コメント

1件のコメント

  1. 長尾景虎が謙信を号したのが何時かは判然としません。正直に不明と書くべきでしょう。