【戦国武将に学ぶ】石田三成~忠節が過ぎて人望失った「悲劇のエリート」~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

「五奉行一の実力者」などといわれる石田三成は1560(永禄3)年、近江国坂田郡石田郷(滋賀県長浜市石田町)で生まれています。近くの観音寺(異説もある)で、長浜城主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に見いだされ、はじめ小姓として仕え、やがて検地奉行など内政面での仕事が評価され、重く用いられるようになりました。
「計数の才」が認められる
近江は近江商人の存在で知られるように商品流通活動が活発で、三成も「計数の才」があり、それが認められたようです。ちなみに、豊臣政権を支えた「五奉行」のうち、3人までが近江出身者で占められています。
戦いのとき、最前線で働く武功派の福島正則、加藤清正らの槍(やり)働きも大事ですが、秀吉の頃には数万の大軍が動くわけですので、兵糧・弾薬などを運ぶ兵站(へいたん)奉行の働きも大事でした。秀吉は、三成ら奉行人の役割も槍働きと同じぐらい大事だと思っており、正則を尾張清洲城24万石にしたとき、三成に近江佐和山城19万4000石を与えています。
三成も、自分のことを評価してくれる秀吉に感謝し、誠心誠意尽くしています。太閤(たいこう)検地の施行にあたっては全国を飛び回っており、鹿児島市にある薩摩島津家の資料館には、三成の「検地尺」が残っています。また、秀吉の九州攻めの後には、戦乱で荒れた博多の復興にあたり、さらには堺政所(まんどころ)にも就任し、文字通り、豊臣政権の総務・人事・経理のトップとして大活躍をしています。
現代の中間管理職に通じる悲哀
豊臣政権には、室町時代の申次衆(もうしつぎしゅう)、江戸時代の側用人(そばようにん)といった、主君への取り次ぎ役などを務める職制はありませんでしたが、申次衆、側用人の仕事も三成がこなしていました。このことに関して、江戸時代、神沢貞幹(かんざわ・ていかん)の著した逸話集「翁草(おきなぐさ)」に面白いエピソードが載っています。
ある年の10月ごろ、毛利輝元から秀吉に季節外れの大きな桃が贈られてきました。輝元としては「珍しい品だから秀吉様に」との思いで届けてきたものと思われます。それを受け取った三成は「初冬の季節にこのような大桃は珍しい。しかし、季節外れの果物で秀吉殿が腹をこわされては一大事」といってこれをつき返しています。
主君秀吉の健康を気遣う三成の忠勤ぶりが表れているエピソードですが、やや杓子(しゃくし)定規なところがあったことは否めません。秀吉の側近としてガードを固めれば固めるほど、ほかの家臣との溝は深くなっていったと考えられます。
そのことは、親友の大谷吉継も気付いていました。1600(慶長5)年7月11日、近江佐和山城で三成に挙兵計画を打ち明けられた吉継が「お前は智慮才覚には優れている。しかし、横柄な態度で人望を失っている」という趣旨の忠告を行ったことが知られています。確かに、秀吉という権威をバックに、下に対して横柄な態度に出ることがあったかもしれません。これはある種、エリートゆえの悲劇といってもよいでしょう。
秀吉の命令を下に伝える部署にいる以上、「仲間意識」を強くすることはできなかったと思われます。このことは、現代の中間管理職にもあてはまるのではないでしょうか。
そして、同年9月15日の関ケ原の戦いで、三成率いる西軍は徳川家康率いる東軍に敗れ、三成は10月1日に京都で処刑されて41年の生涯を終えました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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