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【戦国武将に学ぶ】斎藤道三~「油売りから一代で国盗り」の真相とは~

戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

岐阜城内に展示されている斎藤道三の肖像画(模写、部分)
岐阜城内に展示されている斎藤道三の肖像画(模写、部分)

 斎藤道三(どうさん)は謎の多い武将です。以前は、京都・妙覚寺の修行僧が、修行が嫌で寺を飛び出して油売りになり、ついに美濃(現在の岐阜県南部)の戦国大名になったということで、「道三の三変化(さんへんげ)」などといわれてきました。

 ところが、新しい史料が見つかり、修行僧だったのは道三の父親で名を長井新左衛門尉といい、美濃の守護代斎藤家に仕えていたことが分かりました。その子が道三で、これまで道三一人の国盗りといわれてきたことが、2代がかりの国盗りだったことが明らかになってきたのです。

「うつけ者」信長の才能見抜く

 道三ははじめ、長井規秀(のりひで)と名乗っており、1537(天文6)年3月から斎藤利政と名乗り、最終的には出家して道三となります。道三が仕えたのは、美濃守護・土岐頼芸(とき・よりのり)で、1550(天文19)年10月から翌年7月の間に頼芸は追放され、道三が美濃一国を支配する戦国大名となっています。

 その間、道三は隣国尾張の織田信秀によって2度、居城の稲葉山城下まで攻め込まれますが、2度とも撃退しています。守護土岐氏から実権を奪っていったことや、織田信秀相手にいい戦いをしていたことからもうかがわれるように、軍事的才能は素晴らしいものがありました。

 また、これも有名な話ですが、自分の娘濃姫(帰蝶)を信秀の子・信長に嫁がせています。世間では「うつけ」「たわけ」といわれていた信長の才能を高く評価していたのが道三で、1553(天文22)年4月の聖徳寺(しょうとくじ)の会見の際、道三の家臣が「やはり信長はたわけでしたな」と言ったのに対し、道三は「されば無念なる事に候。山城が子共(こども)、たわけが門外に馬を繋(つな)ぐ事案の内にて候」(『信長公記』)と言っています。

「山城」は道三自身のことで、「自分の息子はたわけ(信長)の下につくだろう」という意味です。道三は、信長の真の力を見抜いていたのです。

人望を失い、迎えた最期

 このように、軍事的才能や人を見る目は確かだった道三ですが、残念なことに自分の子と対立し、結局は子に討たれてしまうのです。1556(弘治2)年4月20日の長良川の戦いです。

 道三には、3人の男の子がいたといわれています。長男が義龍(はじめ高政)、次男が孫四郎、三男が喜平次です。家督は長男・義龍に譲られましたが、道三は喜平次をかわいがっていました。家督を弟に奪われることを懸念した義龍が、仮病を使って弟2人を呼び寄せて殺してしまったため、道三と義龍の戦いとなったとされています。

 一説には、道三の支配の下で国内が混乱したため、家臣たちによって道三が引退させられ、義龍が家督を継いだともいわれていて、このあたりの真相はよく分かっていません。ただ、この長良川の戦いでは、道三側に2000ほどの兵しか集まらなかったのに対し、義龍側には1万7000の兵が集まったといわれていますので、道三に人望がなかったことは確かなようです。

 道三のことをよく「蝮(まむし)の道三」といいますが、悪辣(あくらつ)な手段で敵対する者を葬っていったツケが、このような形で出てしまったのかもしれません。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

【写真】斎藤道三ゆかりの「岐阜」

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小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」の時代考証を担当している。

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