【戦国武将に学ぶ】今川義元~信玄・謙信と並ぶ名将が桶狭間で散った理由~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
今川義元は1519(永正16)年生まれで、今年はちょうど生誕500年目の節目の年にあたり、地元の静岡市を中心に「今川義元公生誕500年祭」として各種イベントが行われています。今川義元というとどうしても、1560(永禄3)年の「桶狭間の戦い」で2万5000の大軍を擁しながら、たった2000の織田信長軍に負けたイメージがつきまとい、「凡将」「軟弱武将」のレッテルが貼られてしまっているようです。
積極的な富国強兵策と文化振興
桶狭間の戦いで義元が討ち死にしたことは事実ですが、「お公家さんのような生活をしていた」「戦国武将らしくない」といった見方は間違いで、戦国武将としては一流でした。その証拠に、武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の戦い」第2回戦は、義元が間に入って戦いをやめさせています。義元は信玄や謙信と肩を並べる存在だったのです。
また、信玄だけでなく、相模の北条氏康とも手を結んでおり(いわゆる「甲相駿三国同盟」)、他の地域で戦乱が激しいとき、義元の領国の駿河・遠江・三河3カ国は、他国から攻められることもなく平和でした。
それは、義元の積極的な富国強兵策があったからです。駿河・遠江・三河3カ国の米の生産量は意外と少なかったのですが、義元は商品流通経済を活発化させていました。駿府(静岡市)の商人、友野二郎兵衛尉を商人頭に任命し、商人のことを束ねさせていました。また、遠江の見付(静岡県磐田市)の町衆に対しては町人たちの自治を認めています。
そればかりではありません。安倍川上流や大井川上流の金山からの産金も莫大(ばくだい)でした。そして注目されるのは、そうして得た資金を軍事費だけに使うのではなく、文化に投資していたことです。「戦国三大文化」という言い方をしますが、周防山口の大内文化、越前一乗谷の朝倉文化とともに、駿府に「今川文化」の花が開いていました。
和歌・連歌、茶の湯、蹴鞠(けまり)、能・狂言など、京都の公家たちがもたらした文化が地方に根をおろしたのです。
「おごり」が招いた桶狭間での敗戦
では、文武両道で文句のつけようのない義元が、負けるはずのない信長に負けてしまったのはなぜなのでしょうか。最大の要因は「おごり」、そして「油断」だと思います。
義元は足利将軍家から「外出のときに塗輿(ぬりごし)に乗ってよい」という特別許可をもらっていました。よくいわれるように「義元は馬に乗れなかったから輿に乗って出陣した」わけではありません。「私は特別な人間だ」と、信長を権威で圧倒するつもりで輿に乗って行ったのですが、それが命取りになってしまったのです。諜報活動で「義元が輿に乗って出陣している」ことを知った信長は、桶狭間山で奇襲攻撃をした際、「輿のあるあたりを集中的に攻撃せよ」と命令を出したのです。
それともう一つ、組織の人間としての観点からも義元の失敗が指摘されます。それは、軍師といわれた雪斎(せっさい)に代わる人物を置いていなかった点です。雪斎は桶狭間の戦いの5年前に亡くなっていました。雪斎が生きていれば、義元の桶狭間での死はなかったと思いますし、雪斎に代わる軍師が側にいれば、桶狭間は違った展開になっていたと思われます。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
失礼ながら、小和田先生の見解には、断固として異議を唱えます。
小和田先生を含め、義元擁護論者の主張している彼の業績なるものは、内政のみならず外交、戦争に至るまで、ほぼすべて軍師とされる太原雪斎の業績です。あり、しかも雪斎は義元自身が登用ないし抜擢したのではなく、義元の父である氏親がその才能を見込んで、義元の補佐役、養育係として付けてあげた人物です。今川義元は、雪斎に代わる人物を置かなかったのではなく、そもそも才能のある人物を自ら登用、抜擢する能力が無かったのです。
その雪斎に死なれた後の義元は、自分の家臣団をまとめることすら困難になり、織田信長の計略に引っ掛かって大事な家臣を自ら誅殺してしまったり、桶狭間の戦いでも、今川義元は約2万以上とされる自軍はおろか、本陣にいる5000の兵すら有効に活用できておらず、甲陽軍鑑では、遠回しに今川義元の戦いぶりを、戦の素人がやることだと批判されています。
義元擁護論を唱えるのは結構ですが、以上のような義元にとって不利な事実に目を背けたままで擁護論を唱え続けられるのでは、もはや学者としての見識自体を疑わざるを得ません。