【戦国武将に学ぶ】伊達政宗~大胆な開き直りで乱世を生き抜いた「奥州の覇者」~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

伊達政宗のことを「遅れてきた戦国武将」ということがあります。政宗は1567(永禄10)年生まれで、中央では、織田信長が足利義昭を擁して上洛を果たす1年前に当たります。亡くなったのが、すでに徳川幕府3代将軍家光が全国を安定支配していた1636(寛永13)年です。政宗の人生は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いまでが33年、関ヶ原後が36年という計算になります。
23歳で東北を代表する大名に
1584(天正12)年、18歳で父・輝宗から家督を譲られますがその翌年、敵対した二本松城主・畠山義継に父が拉致されたとき、義継と共に父をも鉄砲で撃たなければならないという悲劇も起きています。
その後、人取橋(ひととりばし)の戦いで佐竹・蘆名連合軍と戦い、1589(天正17)年6月には会津磐梯山麓摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名義広を破り、23歳の若さで東北(奥州)を代表する戦国大名となっています。ところが、その政宗の前に豊臣秀吉が立ちふさがります。秀吉による小田原攻めです。
政宗は、小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏政・氏直父子と同盟関係にあったので、はじめは秀吉軍と戦うつもりでいました。しかし、家老の片倉小十郎景綱に説得され、小田原参陣、つまり、秀吉の陣営に加わったため生き残ることができたのです。
「危ない橋」渡る姿も魅力
政宗のすごいところは「長い物には巻かれろ」といった生き方をしないその積極性と、開き直りにあったとみています。そのために何度も危ない橋を渡る形になりますが、それが政宗の魅力といってよいかもしれません。
例えば、1590(天正18)年から翌年にかけての葛西・大崎一揆のとき、政宗が裏で一揆を扇動しているという嫌疑をかけられましたが、秀吉の呼び出しに応じて上洛するに際し、行列の先頭に金箔(きんぱく)を押した磔柱(はりつけばしら)を押し立てて入京したといわれています。
また、1595(文禄4)年の豊臣秀次事件に連座させられそうになったときには、秀吉から政宗のもとに遣わされた詰問使に対し、「両目の秀吉殿が秀次を見損じた。片目の私が見損じて当然だ」と言い放ったといわれています。幼い頃、右目を失明したことを逆手に取り、開き直ったわけです。おどおど、こそこそしていれば、秀吉も政宗を罰したと思います。
勇み足で失った「百万石」
ただ、こうした「現状に甘んじない」という積極的な生き方は、裏目に出ることがあります。よくいう「勇み足」で、政宗はそれで損をしていますので、その点ではマイナスといってよいでしょう。
関ヶ原の戦いのとき、政宗は東軍・徳川家康方に付きました。といっても、関ヶ原本戦には加わっておらず、会津の上杉景勝の押さえでした。戦いの前に家康から50万石ほどの土地が与えられることになっていて、それまでの政宗の所領が58万石だったので、政宗側は「百万石のお墨付き」といっていました。
ところが、結果的には2万石しか加増されませんでした。それは、「奥州版関ヶ原の戦い」のとき、和賀一揆の首謀者・和賀忠親をたきつけて、南部領をかく乱させ、そのどさくさにまぎれて所領を増やそうとした動きが、家康側に知られてしまったからだとされています。積極性が裏目に出て「百万石のお墨付き」がふいになってしまったのです。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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