【戦国武将に学ぶ】陶晴賢~諫言聞かぬ主君に反旗~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
![陶晴賢が仕えた大内氏の文化の代表的建築物、瑠璃光寺五重塔(山口市)](https://otonanswer.jp/wp-content/uploads/2022/09/202209sueharukata01-360x310.jpg)
陶晴賢(すえ・はるかた)の「陶」という珍しい名字は、周防国吉敷郡陶村(現在の山口市陶)から来ています。大内氏の一族が周防国佐波郡右田(みぎた)村に住んで右田氏となり、その分かれが陶村に住んで陶氏となりました。陶盛政のとき、具体的には1432(永享4)年ですが、周防守護代になり、子孫は守護代を世襲します。周防が守護大内氏の本国ですので、その周防の守護代ということは、大内家臣の中での重臣筆頭というわけです。
下剋上には成功
陶晴賢は、はじめ隆房(たかふさ)と名乗っていました。主君大内義隆から「隆」の一字を与えられていたからです。その主君大内義隆は、安芸、石見、長門、周防のほか、豊前、筑前といった九州の一部も版図に組み込み、戦国大名としては強豪大名に位置付けられていました。
ところが、その義隆が、一つの出来事がきっかけとなって、全くやる気をなくしてしまったのです。それが、1542(天文11)年から翌年にかけての出雲遠征の失敗でした。世にいう第1次月山富田(がっさんとだ)城の戦いです。
この戦いで、義隆は尼子(あまご)晴久と戦って敗れた上に、その敗走途中、跡継ぎと決めていた養嗣子(ようしし)晴持が死んでしまったのです。この後、義隆はそのショックからか、政治をほっぽり出し、和歌や田楽など遊楽にふけるようになってしまいました。
当然、重臣筆頭の陶隆房は、主君義隆に諫言(かんげん)をします。しかし義隆は、次第に隆房を遠ざけるようになり、寵臣(ちょうしん)相良武任(さがら・たけとう)とその取り巻きを重用し、政治・軍事から離れるばかりでした。
再三の諫言に耳を貸そうとしない義隆をみて、隆房は、ついに謀反の覚悟を固めます。そのときの言葉が「大内義隆記」という史料に載っています。その言葉というのが、「隆房申しけるやうは、天の与へをとらざれば、返つて其(そ)の科(とが)をうく。時に至りてをこなわざれば、返つて其の科をうく」というものでした。要するに、「いま、反旗を翻して義隆を倒し、民衆を悪政から救わなければ、天罰を受けることになる」というわけです。下剋上の論理といってよいでしょう。
そして、ついに、1551(天文20)年8月20日、隆房は挙兵し、29日には義隆の本拠地山口の大内氏館を攻めます。義隆は防戦が無理と判断し、長門の深川大寧寺(たいねいじ)まで逃れましたが、結局、そこで9月1日に自害。隆房のクーデターは成功しました。
厳島で毛利氏に敗れる
この後、隆房は、自らが義隆に成り代わるのではなく、豊後の戦国大名大友宗麟と交渉し、宗麟の弟晴英を大内氏の後継者として迎えています。この晴英から「晴」の一字をもらい、この後、晴賢と名乗っています。
こうした大内氏内部の状況を見ていたのが安芸の国人領主毛利元就でした。元就はその頃、最大動員兵力が4000ほどでしたので、2万の大軍を擁する陶晴賢と戦うための準備を始めます。狭い厳島(広島県廿日市市)におびき出す作戦を考え、1555年10月1日、その厳島で陶の大軍と戦っています。結局、晴賢は敗れ、島の南、高安原まで逃れ、そこで自刃しました。
こうして、中国地方で最大勢力を持っていた大内氏に代わり、毛利氏が台頭。その毛利氏が尼子氏を破り、中国地方を席巻することになるのです。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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