【戦国武将に学ぶ】吉川元春~「本能寺の変」知り、秀吉追撃を主張~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

吉川氏は本姓藤原氏で、藤原南家の祖、武智麻呂(むちまろ))の子孫と称しています。名字の地は駿河国有度郡吉香(きっか)郷(静岡市清水区)で、鎌倉時代のはじめ、梶原景時一族が謀反を起こし京都に向かったとき、それを駿河で討ち取った一人に、吉香小次郎がいました。
また、1221(承久3)年の「承久の乱」のとき、吉香経景・義景兄弟が、宇治川を渡って敵と渡り合い、その功によって、経景に安芸国佐東郡(広島市)の地頭職が、義景には同じく安芸国山県郡戸谷(広島県北広島町)の地頭職が与えられ、安芸国に根を下ろすことになります。西遷御家人として、この後、「吉川氏」を名乗っています。
「毛利両川」本家支える
戦国時代には、吉川興経が毛利元就と同じランクの国人領主だったのですが、元就の力が強くなったとき、興経は、元就の次男元春を養子として迎えています。1547(天文16)年のことです。
一見平和裏にことが運ばれたようにみえますが、その3年後、元就は興経を殺していますので、元就による吉川家乗っ取り劇とされています。
この後、元春は1555(弘治元)年の厳島の戦いをはじめ、山陰・山陽、さらに九州各地での戦いにおいて、父元就に従い、小早川家を継いだ弟・隆景とともに大活躍をすることになります。
毛利家では、本家を継いだ長兄隆元が早くに亡くなったため、隆元の子輝元を、元春と隆景が補佐する態勢がしばらく続きます。吉川の「川」、小早川の「川」、二本の「川」が毛利本家を守る形となったことから「毛利両川(りょうせん)」と呼ばれています。
豊臣政権では冷遇
ただ、この「毛利両川」の吉川元春と小早川隆景兄弟は、性格がずいぶん違っていました。元春はどちらかといえば猪突猛進型、隆景は沈思黙考型といっていいのではないかと思われます。そのことがはっきり現れたのが、1582(天正10)年6月の羽柴秀吉による「中国大返し」のときです。
秀吉が清水宗治の守る備中高松城(岡山市)を水攻めにしていたとき、元春は隆景とともに宗治の後詰(ごづめ)として高松城近くに布陣していました。秀吉の陣所に本能寺の変の第一報が届けられたのは、6月3日夜のことといわれています。
秀吉は、織田信長の死を隠して和平交渉に動きます。毛利家側も、水没寸前の高松城を救う手だてがなかったものですから、講和に応じ、翌6月4日、清水宗治の切腹によって高松城は開城となり、両軍、兵を引くことになりました。
ところが、その直後、毛利家側も信長の死を知りました。このとき、元春は、秀吉を追撃するよう主張しています。追撃して、明智光秀と挟み撃ちにしようというわけです。しかし、それに反対したのが弟の隆景でした。「講和を結んだ誓紙の墨が乾かないのに、それをほごにするわけにはいかない」というのが理由です。「毛利家が誓紙を破るわけにはいかない」というわけですが、いかにも取ってつけたような理由です。これは、おそらく、隆景が秀吉の力量を知っていたからだと思います。
ここで注目されるのが、元春と隆景が置かれていた場所です。同じ毛利領国にあって、元春の所領は山陰です。それに対し、隆景の所領は山陽、瀬戸内沿いです。上方情報、特に秀吉に関する情報は、早く、しかも大量に隆景のところに入っていましたが、元春のところにはそれがありませんでした。
結局、隆景の主張が通り、毛利軍は秀吉を追わないことになりました。この後、秀吉は、このときの元春・隆景兄弟の対応の違いを知ることになり、隆景は優遇されますが、元春は冷遇されることになります。
元春は息子に家督を譲った後、秀吉の求めで1586(天正14)の九州攻めに動員されますが、その陣中で亡くなりました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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