【戦国武将に学ぶ】立花道雪~戦いで、諫言で、大友家支え続ける~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
豊後の戦国大名大友宗麟(義鎮)の重臣の一人で、軍師としても知られる立花道雪は、はじめ戸次鑑連(べっき・あきつら)と名乗っていました。宗麟の父親義鑑(よしあき)の一字を与えられたことからも分かるように、義鑑の時代から大友家に仕えていました。のち、立花山城(福岡市東区など)を任される城督(じょうとく)となり、立花姓を名乗りました。その後、出家して道雪と号しています。
歩けずとも戦場に
その立花道雪ですが、意外なことに身体障害者だったのです。いつの戦いかはっきりしていないのですが、ある戦いで、雷雨の中、道雪が刀を振り上げたところ、その刀に雷が落ち、足を負傷して、自ら歩くことも、馬に乗ることもできない状態となってしまいました。
普通、このような場合、武将としての道を諦め、仏門に入るなどするところですが、道雪はそのまま武将であり続けます。何と、手輿(たごし)に乗り、それを担がせて戦いに出ているのです。
しかも、戦いの最中、不利な状況が生まれ、味方が崩れそうになったとき、道雪は「命が惜しくば、手輿をここに置いて逃げよ」と叫んだといいます。手輿は4人ほどで担いだものと思われますが、主人が乗った手輿を置いて逃げるわけにはいきません。必然的に、手輿に乗った道雪とその軍勢が踏みとどまる形となり、崩れかけた大友軍がそこから盛り返す結果になったといいます。
武将としての活躍だけでなく、主君大友宗麟に諫言(かんげん)をしたことでも知られています。大友宗麟というと、キリシタン大名として有名で、城下の府内(ふない)=大分市=に病院や育児院を造るなど、名君としての印象がありますが、若い頃はそうでもありませんでした。政治をほっぽり出し、連日、連歌や酒宴に明け暮れたときもありました。
諫言しようにも、道雪らは遠ざけられていたので、面会すらできませんでした。そこで道雪は一計を案じ、京都から美しい踊り子の一座を自分の屋敷に呼んで踊らせたのです。その評判が宗麟の耳に入り、「踊り子を連れて登城せよ」との沙汰があり、首尾よく道雪は宗麟に諫言することができたといわれています。
それだけではなく、家中統制にも気を配っていたことが、1579(天正7)年2月16日付の道雪の訓戒状からもうかがわれます。その訓戒状には、「いったん折檻(せっかん)をこうむることがあろうとも、御意見を申しあげてこそ、はじめて家来といえる」とあり、諫言の重要性を指摘しています。
家督を娘に
ところで、道雪には男の子どもがおらず、子は●千代(ぎんちよ、●は「門」がまえに「言」、以下同)という女の子一人だけでした。跡継ぎを心配した宗麟から、養子を迎えるようにとの勧めがたびたびあったのですが、どういうわけか道雪はそれを断り続け、断っただけでなく、「娘の●千代に家督と、立花城の城督という役目を譲りたい」と申し出ているのです。
注目されるのは、その道雪の申請に対し、宗麟と子義統が連署で、「承知した」と許可していることです。「家督は男子だけが受け継ぐ」という先入観がありますが、女子も家督を継いでいたことが分かります。
この後、●千代が適齢になったとき、道雪は同じく宗麟の重臣だった高橋鎮種(紹運)の子宗茂を婿に迎えています。これが立花宗茂です。
道雪は、毛利元就との戦い、龍造寺隆信との戦いで大活躍し、大友家の版図拡大に貢献しました。しかし、大友家そのものが1578(天正6)年に、耳川の戦いで島津軍に敗れて衰退し始め、その島津軍との戦いのため筑後に出陣中の1585年5月11日、道雪は陣中で亡くなっています。大友家のために戦い抜いた一生でした。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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