【戦国武将に学ぶ】小西行長~最期まで教義重んじたキリシタン大名~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
小西行長は「アウグスティヌス」という洗礼名を持つキリシタン大名として有名です。以前は、堺(堺市)の豪商である薬種商小西家の出身で、商人から武将に転身した代表例のようにいわれていましたが、その後の研究で、小西家の出身ではあるものの、豪商そのものの家ではなく、その一族だったとされています。
行長の生年は明らかではありません。小西立佐(りゅうさ、隆佐とも)の子で、父も熱心なキリスト教徒だったことが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にも記されています。
船奉行として活躍
はじめ、備前・美作(ともに岡山県)の戦国大名宇喜多直家に仕えていて、直家が、「中国方面軍司令官」として播磨(兵庫県)に乗り込んできた羽柴秀吉を通じて織田信長に降った際、その使者となったのが行長といわれています。
これが1578(天正6)年終わりから翌年初めにかけてのことですので、このことが契機となったのでしょう。その2年後、1580年ごろ、行長は父立佐とともに、秀吉の家臣に迎え入れられています。
注目されるのは、この後、行長が、瀬戸内海の塩飽(しわく、香川県丸亀市・坂出市など)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将に任命されていることです。普通、これを「船奉行」と呼んでいます。
1585(天正13)年の四国長宗我部攻め、1587年の九州島津攻めで、兵糧弾薬の輸送など、船奉行の役割は大きく、また、そうしたことを通じて、兵站(へいたん)奉行の石田三成と親しくなっていきました。このことが、関ケ原の戦いで、行長が西軍石田三成方となった伏線ではないかと思われます。
九州平定後、肥後(熊本県)には秀吉家臣の佐々成政が入りましたが、1588年、一揆制圧に失敗し、代わりに肥後北半国に加藤清正、南半国に行長がはじめ14万石、次いで24万石の大名として入りました。そのとき、宇土(うと)城(熊本県宇土市)を居城としています。
明との交渉役、務める
1592(文禄元)年から始まる朝鮮出兵、すなわち文禄の役では、行長は第1軍として、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らと1万8700の軍勢で渡海し、第2軍の加藤清正とともに先陣を務めることになりました。
行長の名が広く知られるようになったのは、この先陣での働きではなく、明の沈惟敬(しん・いけい)との講和交渉で、行長が日本側を代表する形で交渉にあたったからです。ただし、明の使節が来日した際、秀吉が期待していた内容と大きなずれがあったことで、激怒した秀吉により、再度の出兵、すなわち慶長の役となり、行長は再び渡海して戦うことになりました。
このときは、第1軍と第2軍は、行長と清正が交代で務めることとされました。この慶長の役は、秀吉の死によって終わり、行長は1598(慶長3)年12月に帰国しています。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、行長は石田三成方の西軍として出陣し、兵6000を率いて天満山に布陣しています。中山道を押さえる重要な場所を任されたわけですが、松尾山に布陣していた小早川秀秋の寝返りによって行長軍は崩れ、伊吹山に逃げ込んだところを捕縛されてしまいます。
普通は、戦いで負けた場合、「恥を後世に残さない」ということで自害に及ぶところですが、行長は、「自害はキリシタンの教義に反する」として自害せず、捕らえられ、結局、石田三成らとともに、京都六条河原で処刑されています。
奉行としての力量や交渉能力を持ちながら、実力を発揮しきれなかった不運な生涯でした。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
コメント