【戦国武将に学ぶ】島津義久~九州全域に勢力伸ばした4兄弟の結束〜
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
戦国時代、大名当主の座を巡って、兄弟が争うという家は幾つもありましたが、逆に兄弟が結束し、勢力を伸ばした例もあります。薩摩(鹿児島県西部)の島津氏はその代表例といっていいかもしれません。
普通、兄弟が多いと、家督争いが起こるのを心配し、家督を継がせる予定の1人を除いて、仏門に入れたり、養子に出したりするのですが、戦国期の当主・島津貴久は長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久の4人を手元で育て、長男の義久に家督を譲り、弟たちにその補佐をさせたのです。1566(永禄9)年のことでした。
龍造寺を撃破、大友宗麟を標的に
義久は3人の弟たちと力を合わせ、1574(天正2)年、それまで敵対していた伊地知(いぢち)氏や肝付(きもつき)氏を下して、薩摩・大隅2国の統一を果たしています。そして、その後も勢いは止まらず、4年後の1578年、日向耳川の戦いで大友宗麟の軍勢と戦って、これを破り、領土を日向にまで拡大。薩摩・大隅・日向3カ国の大名となります。
九州はその名の通り、当時、9カ国から成っていましたが、ここにおいて、島津氏は大友宗麟、龍造寺隆信とで文字通り、九州を3分する勢力となり、さらに宗麟、隆信を圧倒し始めたのです。具体的に、義久が最初にターゲットとして選んだのが龍造寺隆信でした。
1584年、義久は弟・家久に兵をつけて島原半島に攻め込み、島原の前山(眉山)の東、沖田畷(おきたなわて)という所に龍造寺軍をおびきだし、そこで敵の総大将・龍造寺隆信を討ち取っています。この沖田畷の戦いを機に、龍造寺氏は急速に没落していくことになるのです。
そうなると当然、義久の次のターゲットは、豊後を中心に九州北部に勢力を持つ大友宗麟となります。宗麟は自分だけの力では島津軍を撃退できないと判断し、その頃、急速に力を付けてきた豊臣秀吉に泣きつきました。秀吉も、九州における島津義久の一人勝ちという状況は自らの目標とする天下統一にとって好ましくないと考えていたので、宗麟の求めに応じ、まず、1585年10月2日付で、義久に対し、宗麟との戦いをやめるよう命じています。
20万の秀吉軍に屈する
この停戦命令において、秀吉が天皇を前面に持ち出し、天皇の命令や定めたことを意味する「勅定(ちょくじょう)」、さらには、天皇のお考えという意味の「叡慮(えいりょ)」という言葉を使っていることが注目されます。秀吉が関白になった直後で、関白である秀吉が、停戦命令に従わない方を征伐するという、いわゆる「惣無事(そうぶじ)」の論理を前面に打ち出していたことが分かります。
義久は秀吉の停戦命令を無視し、翌1586年6月、自ら鹿児島を出陣、肥前の筑紫(ちくし)広門の勝尾(かつのお)城を攻め落としました。義久はさらに岩屋城を攻め、大友宗麟の重臣・高橋紹運(じょううん)を倒しています。
秀吉も島津討伐の腹を決め、仙石秀久、長宗我部元親らに出陣を命じますが、義久は戸次(へつぎ)川の戦いで、この秀吉側軍勢も破っているのです。しかし、義久の快進撃もそこまででした。翌1587年、秀吉による本格的な九州攻めとなり、20万の大軍を迎え撃つこととなるわけですが、日向の根白坂の戦いで敗れ、それ以上の抵抗は無理と判断し、降伏しています。
結果的に、無駄な抵抗だったということになりますが、義久のこれだけの軍事行動を可能にしたのは、4兄弟の結束に加え、経済力があったからです。当時、義久は琉球貿易の権限を一手に握っていました。筆者は、義久が「九州独立国」構想を持っていたのではないかと思います。中央から伸びてくる勢力に対して、「秀吉、何するものぞ」といった気概を抱いていたと思われるのです。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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