刺傷放火事件 メディアは犯人の片棒を担いでいる? 承認欲に踊らされないために
電車内での刺傷・放火事件が相次ぎ、そのたびにメディアが大々的に取り上げています。そのことは、社会にどのような影響を与えるのでしょうか。

電車内での刺傷・放火事件が相次いでいます。今年8月、小田急電鉄小田原線内で発生した、男女10人が重軽傷を負った刺傷事件・放火未遂事件を皮切りに、10月には京王電鉄京王線で男女18人が重軽傷を負った刺傷・放火事件、11月には九州新幹線の車内で放火未遂事件が起きました。京王線の事件は、小田急線の事件を参考にした旨が報じられており、九州新幹線の事件も、京王線の事件を参考にした模倣犯的な側面があったことが報じられています。
凶悪犯罪は古典的図式の枠内
一見、コロナ禍による社会の閉塞(へいそく)感が原因で凶悪犯罪が増加しているかのようですが、警察庁の「犯罪統計資料 2020年1〜12月分【確定値】」を見ると、殺人や強盗、放火などの重要犯罪の認知件数は過去5年間で2600件ほど減少しています。検挙件数や検挙人数も減少傾向、あるいは横ばいで推移し、例えば、2018年の検挙件数は8908件、検挙人数は7373人ですが、2020年は順に8369件、7317人といった具合であまり大きな変化はありません。
ここで重要なのは、これらの犯罪が古典的な図式に収まるということです。「自尊心を権力意志(他を征服・支配し、自己生存の維持と拡大を図ろうとする生の根本衝動)の実現によって回復することを主な目的とし、それらは他者からの承認を当てにしている」という構図は「殺人研究」で知られる英国人作家のコリン・ウィルソンが「20世紀以降に出現した犯罪の典型だ」と指摘しています。
「高度に支配的な人格が犯罪を犯すのは、犯罪行為そのものが授けてくれる目的感のためなのである。彼は部分的な(完全でない)自己イメージのみじめさというものに気づいていて、あらゆる人間と同じように、そのことを他人のせいにしがちである。従って、犯罪行為はそういう彼のイメージを強化する作用を有するだけでなく、自分は筋道だった行動をしているのであり、罰せられて然(しか)るべき社会に罰を加えているのだという快感をも彼に与えてくれる」(「現代殺人の解剖 暗殺者(アサシン)の世界」中村保男訳、河出書房新社)とウィルソンは述べています。
自己イメージはあくまで、周囲との関係性に依存しており、「自分とは何者か」というアイデンティティーと密接に結び付いています。社会から拒絶されているという思い込みや、自分は誰からも理解されない存在であるという欲求不満の高まりが、自己イメージをすぐにでも手当てできる、急ごしらえの打開策を呼び寄せるのです。
その心理について、ウィルソンは「なんとしても支配(コントロール)感を回復しなければならぬという緊急な必要を感じる。そこで、自分の支配感を回復してくれるものなら、どんな行動でも、その当座には正当化できるものと思われる」(前掲書)と表現しています。京王線の事件の容疑者が「(米国の漫画「バットマン」の登場人物の)ジョーカーに憧れていた」「人を殺せなくて悔しい」などと供述していたことから、劇場型犯罪のアイコンといえるバットマンの宿敵ジョーカーになりきることで自己イメージを取り戻そうとしたと考えられます。
小田急線の事件では、容疑者の「幸せそうな女性を見ると、殺したくなった」などとの供述から、「ミソジニー(女性嫌悪)犯罪」「フェミサイド(女性を標的にした殺人)」という見方が識者から出されました。しかし、報道によると、犯行の引き金になったのは、犯行当日の日中、東京都新宿区の食料品店で女性店員に万引を通報されたことでした。その腹いせに女性店員を殺そうと店に戻ったものの、すでに閉まっていたため、「電車で人を殺そうと思った。電車は逃げ場がなく、大量に殺せると思った」といった動機で犯行に及びました。
このことから、犯行のプロセスが行き当たりばったりだったことが分かりますし、先述の「なんとしても支配(コントロール)感を回復しなければならぬという緊急な必要」に促された面が強いといえます。それに伴い、殺害対象も「大量」へと拡散したのです。
「暴力的アイデンティティー」とは何か
かつて、米国における銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集者アリ・N・シュルマンはウォール・ストリート・ジャーナルのコラムで、乱射犯の目的は「政治的主張を除いたテロリズム」であるとし、「こうしたことは乱射事件がある種の演劇であることを示唆している」と述べました。
「乱射犯の目的は、その行為を通じてメッセージを伝えることにあるのだ。世の中がいかにして、自分をその犯行に駆り立てたかという物語を作り、それが真実だと自らを納得させなければならない。最終段階は、その物語を他人用に練り上げ、口頭での事前警告、犠牲者たちへの挑発的な言葉、報道機関向けに作られた声明文などを通じて伝えるのである」(大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ)
ここには、重大な事件を引き起こすことによって、重要な人物になろうとする恐るべきトートロジー(同語反復)が貫かれています。つまり、逸脱行為のスケール自体がメッセージとなるため、犠牲者数や被害の深刻さが自己の主張に正当性を与える材料と化すのです。彼らはその瞬間、社会をさながら、自分用のキャンバスに変え、凶悪性という色で塗りつぶしていくのです。これは社会人類学者エリオット・レイトンが「暴力的アイデンティティー」と呼んでいるものです。
レイトンは「凶暴な文化的英雄というアイデンティティーの抜け道は、殺人者に称賛や愛情はほとんどもたらさないだろうが、大衆の敬意とマスコミの注目は確実に約束されている。それによって称賛や愛情の欠如は十分に償われるだろう。この特殊な意味において、殺人の価値と行動は、主流文化と完全な調和を保っている」と分析しています(「大量殺人者の誕生」中野真紀子訳、人文書院)。これは2014年以降、世界中で流行したIS(過激派組織「イスラム国」)の戦士を名乗るローンウルフ(一匹おおかみ)型のテロにも当てはまる構造です。
新聞やテレビをはじめとするマスメディアと、今や、それらをしのぐ力を持つソーシャルメディアのいずれにおいても、注意しなければならないのは、暴力的アイデンティティーの片棒を担ぐ行為です。先述のシュルマンは乱射犯の主張を公表しない、名前や顔を伏せるといった案を示しています。要は犯人と同じ土俵には乗らないというスタンスです。
京王線の事件の容疑者は車内で1人、たばこをふかしていたところを現場に居合わせた人に撮影され、その動画がニュースなどで取り上げられましたが、あれはジョーカーのコスプレの延長線上にある自己アピールそのものです。あの動画が何百万回も再生され、人々の記憶に刻まれることこそが、彼が望んだリアクションであった可能性が非常に高いのです。一時的に人々の関心の的になることで、承認の欠乏を補うというわけです。
報道関係者や専門家たちは目を覆うようなセンセーショナルな暴力犯罪に、社会に対する何か深遠な問題提起を読み取ろうとしがちですが、単に個人的な動機に基づく犯罪を公共の場を用いたスペクタクルに仕立てようとしてはいないか、冷静に観察することが重要です。また、スマートフォンにくぎ付けになっている私たちも先述のようなロジックにまんまと乗せられていないか、自省する必要がありそうです。
ソーシャルメディアの破壊的な影響力が増大する中で、誰もがアテンション(注目)を尊ぶシステムを内面化しつつあります。そもそも、近代社会においては、さまざまな挫折や諦念によって、社会から正当な評価を得ていないと感じる者のうち一定数の者が、逸脱者という、社会を震撼(しんかん)させる立場に置くことで正当な評価を得ようと思わぬ行動に出ます。彼らは多くの場合、私たちと同程度かそれ以上に、他者に何がしかの印象を残すことに苦心しているにすぎないのです。
(評論家、著述家 真鍋厚)
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