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【戦国武将に学ぶ】織田信長(下)~唯我独尊が招いた相次ぐ謀反…久秀、村重、そして光秀~

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小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」の時代考証を担当している。

コメント

1件のコメント

  1. 私は、信長の独断専行型気質が、父親信秀由来のものだと考えます。信秀は腰の軽い人で、天文16年(1547年)美濃国斎藤道三が大垣城付近まで攻め寄せたという報を聞くと、15日程敵が疲れるのを待ってから突如出陣し、斎藤道三の背後の諸所を焼き討ちしました。これを受け斎藤道三は大垣城攻撃を諦め稲葉山城へ逃げかえります

    また信秀は天文17年(1548年)古渡城から戦線に近い末盛城に居所を移動させています。15歳の青年信長は、末盛新城から迎撃に向かう父信秀の雄姿を、誇らしい気持ちで見送ったのだと私は空想するんです

    この織田信秀の機動力の高さは何処から生まれたのか?私は彼の日々の馬の調練・弓・槍・刀・兵法の鍛練習慣が無いと実現し得ないと思うのです。自らが良い習慣を持ち、無言で模範を示し部下達もそれに従う。そういう“不言実行”モデルが既に父親信秀時代に培われていたとすると、本人は至極当然の約束事を淡々と日々繰り返し処理していただけなのに、周りの人から見たら、信長の所作・行動が洗練され速くなっているの様に見えたのではないでしょうか。この信長の“速さ”に周りの人達は付いて行けなかったのではないかと… これが私の考える信長の“独断専行”のメカニズムです

    彼が長島一向一揆に対して苛烈な仕置きをしたのは、また別の理由からの様に感じます

    あと、羽柴秀吉が出世街道を邁進していたというのは、私は佐久間への“折檻状”から判断されている様に思うのですが、秀吉の場合は手取り川の闘いで敵前逃亡をし、失意のうちに松永久秀攻め・中国戦線への転戦を経ていて、信長が折檻状の中で秀吉を大袈裟に褒めたのは“ただでさえ低い秀吉の家臣団内での序列を思いやり、少しでも上げてやろう”とする情けも多分にあったと感じますので、私は額面通りには受け取れない様に思いました

    また、明智光秀の赴任地は、出雲・石見ですが、彼が徳川家康に嫉妬したであろう“欲しくても手が届かなかった海に面した国”です。新鮮な太平洋のシーフードを信長へ差し出した徳川家康の饗応返しの大役を、発酵食品である“鮒ずし”(異臭を放つ)を出す事により信長から取り上げられた光秀は、この国替え(海産物を、ふんだんに使用できる)喜んだと思います(領地の召し上げについては、信長は絶対君主なので命令に服従するのは当たり前でした)

    岩見には毛利氏が喉から手が出る程欲しがった石見銀山があり、瀬戸内の交易網を手にしようとする秀吉と比べても、表裏遜色ない手柄と言えますので、光秀が信長からそれ程酷い仕打ちを受けたとは言い切れない様に思いますが、本当の所はどうなのでしょうか