オトナンサー|オトナの教養エンタメバラエティー

【戦国武将に学ぶ】松永久秀~裏切り重ねても評価された男の壮絶な最期~

記事ページに戻る

画像ギャラリー

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」「どうする家康」の時代考証を担当している。オフィシャルサイト(https://office-owada.com/)、YouTube「戦国・小和田チャンネル」(https://www.youtube.com/channel/UCtWUBIHLD0oJ7gzmPJgpWfg/)。

コメント

1件のコメント

  1. まず、事実誤認があります。
    永禄の変で三好軍が将軍義輝を襲撃した際に久秀は参加していません。当日は大和本国に駐在していたことが判明しています。
    また久秀が三好三人衆と敵対した時も、久秀は終始劣勢で信貴山城まで奪われて、義継が久秀側についてもまだ劣勢をはね返すことができず、むしろ信長に助けを求めたために信長軍が畿内に侵攻してきたと考えられています。ですから、義継、久秀が信長に仕えるようになり、初めて三好三人衆が劣勢になったと考えた方が実態に即しているのです。
    また義昭も久秀が兄義輝の殺害に関与していないと認識していたようで、信長、久秀に対して少なくとも当初は敵対心を持っていなかったと考えられます。
    つまり事実誤認が多い文章ということになりますが・・・。